60億人の仲間
憤慨した群衆が立ち上がって叫ぶ。彼らの顔はビックリするほどに青くペイントされて、ボロボロになった祖国の旗を振り回す。「ヤツらを叩きのめせ!」と大声で怒鳴りながら、ゴールを一発決めるように、フロントラインのストライカー達を前へ前へと駆り立てる。
一方、敵対する集団はと言えば、顔を真っ赤に塗ってエール(ビール)のしみで汚れた横断幕を振りかざす。拳を天高く振り回し、4年前にギリギリのところで逃してしまった、胸のすくような勝利に酔いしれることを祈りつつ。
あなた方は、これが中世の戦場ではないことに気づいているだろう。これはただのスポーツ試合に過ぎない。しかし、ワールドカップは他のスポーツとは訳が違うのだ。実際のところ、それは世界中にいる何百万人ものファン達にとってのいわば「宗教的儀式」だ。
北米でも確かにサッカーは誰もが楽しんでいるのだが、ワールドカップ熱はちょっと冷めきている感がある。もちろん、我々も、ホッケー、アメリカンフットボール、野球などへの独特の部族的な執着心から、興奮状態に陥ったりする。興奮の基本的な原動力は、サッカーと同じである。それは「我々とヤツらの戦い」、つまり、「アイツら」を地獄へ落とすことだ。
感情は高ぶるものである。1994年、アイスホッケーのスタンレーカップ決勝戦でVancouver CanucksがNew Yorkに敗れた時、落胆したファン達が暴動を起こし、バンクーバーのダウンタウンでショーウィンドを壊したり、自動車をひっくり返したりしていたことを今でも僕は覚えている。僕はその日、バンクーバー住民としての誇りを持てなかった。僕も熱烈なホッケーファンだが、その時ばかりは「みんな、「いい加減にしょうぜ」と言いたくなった。
最近、ワールドカップ2006ドイツ大会の芸術監督 Hans Zellerは、ワールドカップを「盲目的愛国主義と原始的な行動の最後の砦だ」と非難した。オランダのコーチ、Rinus Michelsはもっと単純明快な言葉で説明している−。「サッカーは戦争だ−」と。
事実、多くの社会学者達は、スポーツ観戦とは、現代の部族主義を形に表したものである、と考えている。有史以後(悲しいことに現代もなお)、我々の直感というものは、(1)共通の敵に対して結束する、(2)敵をこの世から抹殺する、という傾向にある。もちろん、今日の文明世界においては、このような部族的な行動は、もはや容認されるものではない。よって、スポーツチームを創りだし、彼らを応援するようになったのだ。「頑張れ、タイガース!」というように。
スポーツ観戦、結構じゃないか。スポーツ観戦は、我々の部族的な直感を満たすための健全な場所を与えてくれるのである。
とくに、「君は我々の見方か、敵か」なんて言うような、軋轢を招き、怒りを掻き立てるような表現を使う時代においては。自分のチームを応援することは、車の運転中に突然キレること、ギャングの暴力、人種差別、領土問題、軍事力による侵略などに比べれば、はるかにマシだと誰もが分かっていることだろう。
しかし残念なことに、スポーツイベントという場なのに最後の一線を越えてしまう人々がいるのである。
最近、下品で人種差別的な悪口が、ある一流サッカープレイヤー達に浴びせられ、彼らに不要な苦痛を与え、不穏な状態を招くという出来事が起こった。
さらに悪いことに一部の地域では、フーリガン行為、野蛮行為、暴動、試合後の暴力沙汰が今なお継続する問題となっている。
死に値するスポーツなんてこの世には存在しない。我々は心しなければならない。スタジアムの外では、僕らは1つの大きな仲間、そう、総勢60億人の仲間であると。
ワールドカップ2006が、ワイルドで、激しく、熱狂的、スリル満点でまた多くの物議を醸し出すような大会、そして何より「安全な」大会であることに期待しよう。

