師が師なら弟子も弟子?「漱石と芥川」
前回触れた『坊つちやん』について漱石は,新聞記者のインタビューに答えて,腹案はなかったが「3日計(ばか)り前に不意に浮かんで,ずるずると」250枚を1週間で書いたと言っている。
このことから構成立ても推敲も,かなりいい加減であったことがわかる。その為か,と思われる部分をもう一ヶ所指摘しておきたい。
これも冒頭の章であるが,坊っちゃんの父親が死んで,財産分与ということで兄が600円の金をくれる場面がある。その時,坊っちゃんは「これを学資にして勉強してやろう」と思ったというのであるが,実はその直前に,中学校卒業後も「おれは東京でまだ学問をしなければならない」と決心したと書いている。執筆後の推敲がしっかりとしていれば,こうした矛盾はおきないはずである。
漱石の弟子ともいえる芥川龍之介にも,同様の「ん?」がある。初期の『戯作三昧』の冒頭部分で,天保2年9月のある日,神田同朋町(かんだどうぼうちょう)の銭湯に朝湯を浴びに来た曲亭馬琴を次のように描いている。
「つつましく隅へ寄つて,その混雑の中に,静に垢(あか)を落してゐる,六十あまりの老人が一人あつた。年の頃は六十を越してゐよう。鬢(びん)の毛が見苦しく黄ばんだ上に,眼も少し悪いらしい」――先生,60はもう言ってますよ,と言ってあげたくなる。漱石と違って彫心鏤骨という態度で文章に臨んだ芥川に,こうした重複があること自体が信じられないことであるが,これは恐らく「六十あまりの」を消して,その後に何か別の形容句を入れるつもりであったものの,それを忘れて元のまま残ってしまったものであろう。結果,初出がこうである以上,勝手に手を入れることもできず,その後の全集本を含めた収載本もこのままの表現として残さざるを得なくなったのである。
彫心鏤骨,一刀三拝の姿勢で創作に向かった芥川が,狂気への不安,書けなくなることへの不安から自裁の道を選んだのは,この作品からちょうど10年後のことであった。

