川端康成 『雪国』
『雪国』の冒頭部にあたる「夕景色の鏡」「白い朝の鏡」が,それぞれ昭和10年1月号の「文藝春秋」「改造」に掲載された時,作品は伏せ字だらけであった。時節柄,官能的な表現は許されず,そういう部分は伏せ字とされたのである。もちろん,今日では国語の教科書にも掲載されるほど(とはいっても,それは冒頭部分だけであるが)<安全>な作品ということになっているが,なかなかどうして……
ここで『雪国』の梗概を紹介するほどのスペースの余裕はないのでいきなり核心の場面の紹介に入ることになるが,冒頭の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」というその汽車の中,主人公の島村は「退屈まぎれに左手の人差指をいろいろに動かして眺めては,結局この指だけが,これから会いに行く女をなまなましく覚えている,……この指だけは女の触感で今も濡れていて……」などと思うシーンが描かれ,そして,その「女」(=駒子)に会った時,「『こいつが一番よく君を覚えていたよ』と,人差指だけ伸ばした左手の握り拳を,いきなり女の目の前に突きつけ」たりするのである。
川端は,物事を暗示的に示す傾向の強い作家ではあったが,さて上記のような描き方はどうであろうか?
雪国からいったん東京へ帰った島村が,秋になって再び(正確にはみたび)駒子と会う場面では,いっそう想像をかき立てられる描き方となっている。小さな羽虫が飛び交うなか,「あんたそんな虫のなかに坐っていないで,電灯を消すといいわ」という駒子の台詞に続いて「駒子の唇は美しい蛭(ひる)の輪のように滑らかであった。/『いや,帰して』/『相変わらずだね』と,島村は……」というキスの場面がある。そして情交に続くのかと思いきや,轡虫(くつわむし)の声のなか,乳房の片方が大きくなったという駒子の訴えに「その人の癖だね」「両方平均にって,今度からそう言え」などという島村の言葉の後,「家のぐるりを蟇(がま)が鳴いて廻った」とある。実は,この「蟇」こそが情交を暗示しているのであるが,そこまで読み取るにはなかなかの熟練を要する。
さて,では,こうした暗示的な性に関わる描写は,この作品にとってどのような意味をもっているのであろうか。東京には「細君」のいる島村と芸者の駒子――それは,いくら駒子が熱を上げ,それを島村が判っていようとも,所詮は結ばれ得ぬ二人である。そうであるからこそ,その刹那に酔いしれようとする二人でもある。それを,川端はぎりぎりの筆致でみごとに描きあげてみせたのである。その意味で,『雪国』は,性との融合によるひとつの愛の姿――それは決して成就しない――を示した,究極の恋愛小説であったともいえるのではなかろうか。

